LOGIN理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。
夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。
「先輩、帰る時間です」
「は? まだ仕事中なんだけど」
「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」
理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。
「あとちょっとだけ……」
「ダメです」
短い否定。そして、絶対だった。
「……わかったよ」
渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。
帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。
「お疲れさまでした」
理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。
エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。
「いつまで掴んでんだよ」
「先輩が電車に乗るまでです」
有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。
「明日は九時出勤でお願いします」
文句をいう間もなかった。
結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。
「ざいまーす……」
営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。
「先輩。九時って、いいましたよね」
「ああ……そうだっけ」
「そうだっけ、じゃありません」
短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。
「明日から朝、電話します」
「は? なんで」
「起きられないなら、起こします。席についてください」
反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。
朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。
気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。
昼ごはんをコンビニに買いに行こうと立ち上がったとき、理人がそばに来た。
◆
「先輩。お弁当です」
目の前に、布で包まれた弁当箱が差し出された。
「……弁当? お前が作ったのか?」
「はい。食生活も管理の範囲ですので」
「いや、弁当作ってくるって。さすがにやりすぎだろ」
「料理は得意です。問題ありません」
直が困っていると、通りかかった橘梨沙が足を止めた。
「えー、なになに? お弁当?」
「先輩の分を作ってきました」
「もしかして神谷くんの手作り?」
「はい。自分の分と、先輩の分」
理人がもう一つの弁当箱を掲げてみせた。梨沙が目を丸くした。
「すごーい。まるで彼女じゃん」
「彼女って……。いらねえって。コンビニで買ってくるし」
「せっかく作ったんですから、食べてください」
「そうだよー。人の好意は無駄にしちゃダメだからね」
「おいおい、梨沙まで……」
「ね、どんなおかず入ってるの? 見ていい?」
「ダメです。橘さんは休憩に行ってください」
「えー、つれないなー。じゃあ食べたら感想教えてね、夏目くん」
「いらねえって……」
「コンビニの食事だと栄養が偏ります。行きましょう」
理人が直の腕を引いた。抵抗する間もない。梨沙が後ろで手を振っている。
「いってらっしゃーい」
にこにこした顔が遠ざかっていった。
なんだこの状況は。弁当を持たされ、後輩に腕を引かれ、屋上に連れて行かれようとしている。
◆
ビルの屋上には初めてきた。この会社に勤め出してもう、五年が経つのに。
五月の風が頬を撫でた。空は抜けるように青い。ここまでくると、オフィスの閉塞感が少しだけ和らいだ。
備え付けのベンチに腰を下ろして、弁当の包みを開けた。
手作りの匂いがふわりと広がった。コンビニ弁当の均一な匂いとは、まったく違う。油と調味料が混ざった、家庭の台所の匂い。
「はい、お茶も」
理人がペットボトルを差し出した。
「準備いいな」
「弁当にはお茶でしょう」
「なんか、かーちゃんみたいだな、お前」
「そうですか」
理人は涼しい顔で自分の弁当を開けた。中身は同じだった。
卵焼き、ブロッコリー、プチトマト。ハンバーグに小松菜の煮浸し、ひじき。彩りが鮮やかで、ひと目で既製品ではないとわかる。おかずの種類も量も、栄養バランスまで計算されているように見えた。これを全部、朝から作ったのだろうか。
卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。
――甘い。
甘めの卵焼きだった。少しの醤油がアクセントになっていて、ふわふわで、舌の上でほどける。実家の母親が作ってくれた卵焼きに似ていた。コンビニの硬くてしょっぱい卵焼きとは別物だった。
思わず手が止まった。
「……これ、俺の好みなんだけど」
「そうですか」
「いや、なんで知ってんだよ。甘めの卵焼きが好きとか、いったことねえだろ」
「なんとなくです」
なんとなく。そんなわけあるか。でも理人はそれ以上なにもいわず、自分の弁当に箸を伸ばした。追及しようとしたが、その横顔があまりに自然で、聞くタイミングを逃した。
直もご飯を口に運んだ。炊きたてのツヤツヤした米が、噛むほどに甘い。米って、こんなにうまかったっけ。いつもコンビニのおにぎりで済ませていた自分が馬鹿みたいだ。小松菜の煮浸しはだしの香りが鼻に抜けて、ハンバーグは肉汁がじゅわっと広がった。ひじきまで、ちゃんとうまい。
全部が、ちゃんとうまかった。手を抜いているおかずが一つもない。
気づいたら、箸が止まらなくなっていた。がつがつ食べている自分に気づいて、少し恥ずかしくなる。
「……うまいな。全部うまい」
「ありがとうございます」
「神谷、これ朝から全部作ったのか?」
「ハンバーグと煮物は前日に仕込みました。ほかは朝から」
「よくそんな時間あるな……」
「早起きすればいいだけです。食事は生活の基本ですから」
理人は箸を止めて、横目でこちらを見た。
「先輩は、自分のことをもっと大切にしてください」
「……なんだよ、急に」
「他人にはやさしいのに、自分のことは後回しにする」
さらりといわれた。まるで長いこと見てきたかのような口ぶりだった。
ピンとこなかった。困っている人を放っておけないだけだ。それが自分を蔑ろにしていることになるのか。
でも、確かに。自分のために朝から弁当を作ってくれる人は、今、隣にしかいなかった。
直はブロッコリーを口に放り込んだ。塩加減がちょうどよかった。
「にしても、全部俺好みだったな。……ちょっとこわいぐらい」
「こわくないですよ」
理人はなんでもないようにいった。
「じゃあ、明日も作ってきますね」
「……いいのか?」
「もちろんです。リクエストがあれば聞きます」
「じゃあ……唐揚げ」
理人が一瞬、口の端を引いた。呆れたのか、笑ったのか、判断がつかない。
「了解しました」
「弁当箱、洗って返すよ。これぐらいさせてくれ」
「このふたつしかないので。持って帰られると困ります」
「……そうか。じゃあ、頼む」
弁当箱を手渡した。
なにもう、自然に明日も作ってもらう前提になっているのか。梨沙の声が蘇った。「まるで彼女じゃん」。
違う。理人は料理が得意で、ついでに作ってくれてるだけだ。――ついでに、わざわざ、ふたつ。
深く考えるな。
直は立ち上がった。理人も静かに弁当箱を紙袋に収めて、立ち上がる。その口元がかすかに弧を描いていた。
◆
午後は驚くほど仕事が捗った。
いつもなら昼食後に襲ってくる眠気がない。頭がすっきりしていて、メールの返信もサクサク進んだ。二件の見積もり依頼に返答し、来週の訪問スケジュールを組み、後回しにしていた報告書の下書きまで終わった。
おにぎりを急いでかき込んでいたころは、午後一時にはもう瞼が重くなっていた。あれはなんだったのか。
午後三時を過ぎたころ、理人がコーヒーを持ってきた。
「こん詰めすぎです。休憩してください」
「ああ……悪い」
受け取ったカップがあたたかかった。コーヒーの湯気越しに、理人の顔が見えた。
「先輩、午後の仕事、速かったですね」
「……そうか?」
「いつもの倍は進んでますよ」
そうなのか。自覚はなかった。ただ、手が止まらなかっただけだ。
「弁当のおかげですかね」
理人がなんでもないようにいった。なんでもないようにいうくせに、その目が「ほら見ろ」と語っていた。
「……かもな」
素直に認めるのは悔しいが、否定もできなかった。
夕方。理人がまた横に立った。
「先輩、帰りましょう」
「……八時か?」
「八時です」
「今日は素直に帰る」
「よかったです」
今日は腕を掴まれなかった。並んで駅へ歩く。五月の夜風がぬるい。肩が触れそうなぐらい距離が近かったが、理人は気にする様子もなかった。
ふと、昨日のことを思い出した。理人は直を電車に乗せた後、ホームに残っていた。つまり、反対方向に住んでいるか、別の路線を使っているかのどちらかだ。
今日は何食わぬ顔で、理人は直と同じ車両に乗り込んだ。理人の帰り道ではないはずなのに。
「先輩の家の近くにスーパーはありますか」
「あるけど、なんで」
「夕食の改善です。コンビニより選択肢が多いので」
「……お前、どこまで管理する気なんだよ」
「必要なところまでです」
答えになっていない。けれど理人の口調には迷いがなくて、直は言い返せなかった。
直のアパートの最寄り駅で降りて、駅前のスーパーに入った。閉店間際の惣菜コーナーは品数が少なく、値引きシールが貼られた弁当がまばらに並んでいた。
理人はハンバーグ弁当を一つ手に取り、直に見せた。
「いつもこういうのですか」
「……まあ、そんな感じ」
「茶色一色ですね」
「うるせえ。安いし、腹膨れるし、それでいいだろ」
「よくないです」
理人は弁当を棚に戻し、冷蔵ケースからサラダを一つ取って、弁当の横に置いた。
「これを足してください。弁当だけだと野菜が足りません」
「それだけ?」
「まずは、そこからです。急に全部変えても続きません」
押しつけがましくなかった。やれ、ではなく、まずはここから。なのに妙に従いたくなるのは、昼の弁当の味がまだ舌に残っているからだろうか。
直はハンバーグ弁当とサラダを持って会計を済ませた。理人はなにも買わなかった。本当に、直のためだけにここまで来たのだ。
スーパーの外で、理人が足を止めた。
「じゃあ、俺はこれで」
「お前、どこに住んでんの? この辺じゃないだろ」
「会社から徒歩十五分のところです」
「は? ……わざわざ俺のためにここまで来たのか」
「管理ですから」
当たり前のようにいった。けれどそれは、直には当たり前じゃなかった。
理人は数歩歩いてから振り返った。
「明日も弁当、作りますね」
口角がわずかに上がっている。無表情のこの男がうれしそうに見える一瞬が、妙に印象に残った。
「なんなら、夕飯も作りに来ますよ」
「……っ」
返事をする前に、理人は駅へ向かって歩き出していた。細い背中が、改札の向こうに消えていく。わざわざ直が出勤する方向の電車に乗って帰るのだ、この男は。
直はしばらく、その場に立っていた。スーパーの袋がぶら下がった手を見下ろす。ハンバーグ弁当とサラダ。昨日までは持って帰ったことのない組み合わせだ。
部屋に帰った。
電気をつける。いつもと同じ散らかった1K。床に転がった充電器、脱ぎっぱなしのシャツ、ゴミ箱から溢れたコンビニの袋。いつもなら、この中にコンビニ弁当を一つ追加して、ひとりで食べて、寝るだけだ。
今日は、スーパーの袋の中にサラダがある。理人が選んだサラダが。
テーブルの上を少しだけ片付けて、弁当とサラダを並べた。ドレッシングをかけて、一口食べる。普通のサラダだ。特別うまいわけじゃない。
なのに、昼に食べた弁当の味が、まだ舌の奥に残っていた。甘い卵焼き。だしの効いた煮浸し。肉汁たっぷりのハンバーグ。全部が、なぜか直の好みだった。
――なんとなく、って。
理人の横顔が浮かんだ。あの涼しい顔で、朝からふたり分の弁当を作っている姿。キッチンに立って、卵焼きの甘さを調整している姿。
考えても仕方がない。あいつは世話焼きで、料理が得意で、それだけだ。
それだけのはずなのに、落ち着かなかった。
なんでだろう。わからなかった。
理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。 夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。「先輩、帰る時間です」「は? まだ仕事中なんだけど」「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」 理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。「あとちょっとだけ……」「ダメです」 短い否定。そして、絶対だった。「……わかったよ」 渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。 帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。「お疲れさまでした」 理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。 エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。「いつまで掴んでんだよ」「先輩が電車に乗るまでです」 有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。「明日は九時出勤でお願いします」 文句をいう間もなかった。 結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。「ざいまーす……」 営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。「先輩。九時って、いいましたよね」「ああ……そうだっけ」「そうだっけ、じゃありません」 短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。「明日から朝、電話します」「は? なんで」「起きられないなら、起こします。席についてください」 反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。 朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。 気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。 昼ごはんを
オフィスは静寂に包まれていた。 カタカタカタカタ。 聞こえてくるのは、自分がキーボードを叩く音だけ。 直はモニターから目を離し、伸びをした。首を回すと、鈍い音がした。肩も背中もバキバキだった。目頭を親指で押すと、じんわりと痛い。 それまで画面に集中していたせいで気づかなかったが、手を止めた途端、妙に肌寒かった。「……なんか寒くね?」 手のひらで二の腕をさする。空調が止まっている。 周りを見渡した。直の席の上以外、照明はすべて落ちていた。フロアは真っ暗で、窓の外のビルの灯りだけが、かろうじてデスクの輪郭を浮かべている。他の部署のフロアも、とっくに無人だろう。 壁の時計に目をやって、血の気が引いた。「やべっ……終電、終わってる」 がくりと項垂れた。 アーク・ブリッジ株式会社は二十時退社を推奨している。実際、ほとんどの社員はその時間には帰る。優秀なやつなら十八時台に颯爽と退社していく。 それなのに自分は終電どころか、終電すら逃した。 大きなため息が、がらんとしたオフィスに響いた。誰にも聞かれないため息ほど、惨めなものはない。 カプセルホテルか。ネットカフェか。――いや、もういっそ会社に泊まるか。どうせたまった仕事は減らない。 開き直って、モニターに向き直った。 キーボードを叩く指が、さっきより重く感じる。 なんで俺だけこんなに必死なんだろう。案件の数は、たぶんみんなと同じぐらいのはずだ。なのに俺だけが毎晩、このフロアに取り残される。 クライアントからの相談を断れない。ひとつひとつ丁寧にやろうとする。そのせいでメールの返信は後回しになり、夕方には提案書が手つかずで残る。そこから夜が始まる。 わかってる。段取りが悪いんだ。 わかってるけど、直せない。 モニターの文字が滲んできた。瞼が重く、頭もぼんやりする。 携帯を見た。未読のメールが十二件。会社のメールボックスにも未読のメールが十件以上たまっていた。 クライアントの山田さんからの追加依頼、佐藤さんからの仕様変更の相談、営業資料のレビュー依頼。どれも「明日でいいですよ」と言ってくれているのに、どれも気になって手放せない。 今やってしまわないと、明日に持ち越しになる。そうすれば、また仕事がたまる。 わかっているのに、急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。 ――もう限界だ。十分だけ