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第二話 弁当の理由

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-03-02 09:13:17

 理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。

 夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。

「先輩、帰る時間です」

「は? まだ仕事中なんだけど」

「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」

 理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。

「あとちょっとだけ……」

「ダメです」

 短い否定。そして、絶対だった。

「……わかったよ」

 渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。

 帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。

「お疲れさまでした」

 理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。

 エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。

「いつまで掴んでんだよ」

「先輩が電車に乗るまでです」

 有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。

「明日は九時出勤でお願いします」

 文句をいう間もなかった。

 結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。

「ざいまーす……」

 営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。

「先輩。九時って、いいましたよね」

「ああ……そうだっけ」

「そうだっけ、じゃありません」

 短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。

「明日から朝、電話します」

「は? なんで」

「起きられないなら、起こします。席についてください」

 反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。

 朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。

 気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。

 昼ごはんをコンビニに買いに行こうと立ち上がったとき、理人がそばに来た。

「先輩。お弁当です」

 目の前に、布で包まれた弁当箱が差し出された。

「……弁当? お前が作ったのか?」

「はい。食生活も管理の範囲ですので」

「いや、弁当作ってくるって。さすがにやりすぎだろ」

「料理は得意です。問題ありません」

 直が困っていると、通りかかった橘梨沙が足を止めた。

「えー、なになに? お弁当?」

「先輩の分を作ってきました」

「もしかして神谷くんの手作り?」

「はい。自分の分と、先輩の分」

 理人がもう一つの弁当箱を掲げてみせた。梨沙が目を丸くした。

「すごーい。まるで彼女じゃん」

「彼女って……。いらねえって。コンビニで買ってくるし」

「せっかく作ったんですから、食べてください」

「そうだよー。人の好意は無駄にしちゃダメだからね」

「おいおい、梨沙まで……」

「ね、どんなおかず入ってるの? 見ていい?」

「ダメです。橘さんは休憩に行ってください」

「えー、つれないなー。じゃあ食べたら感想教えてね、夏目くん」

「いらねえって……」

「コンビニの食事だと栄養が偏ります。行きましょう」

 理人が直の腕を引いた。抵抗する間もない。梨沙が後ろで手を振っている。

「いってらっしゃーい」

 にこにこした顔が遠ざかっていった。

 なんだこの状況は。弁当を持たされ、後輩に腕を引かれ、屋上に連れて行かれようとしている。

 ビルの屋上には初めてきた。この会社に勤め出してもう、五年が経つのに。

 五月の風が頬を撫でた。空は抜けるように青い。ここまでくると、オフィスの閉塞感が少しだけ和らいだ。

 備え付けのベンチに腰を下ろして、弁当の包みを開けた。

 手作りの匂いがふわりと広がった。コンビニ弁当の均一な匂いとは、まったく違う。油と調味料が混ざった、家庭の台所の匂い。

「はい、お茶も」

 理人がペットボトルを差し出した。

「準備いいな」

「弁当にはお茶でしょう」

「なんか、かーちゃんみたいだな、お前」

「そうですか」

 理人は涼しい顔で自分の弁当を開けた。中身は同じだった。

 卵焼き、ブロッコリー、プチトマト。ハンバーグに小松菜の煮浸し、ひじき。彩りが鮮やかで、ひと目で既製品ではないとわかる。おかずの種類も量も、栄養バランスまで計算されているように見えた。これを全部、朝から作ったのだろうか。

 卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。

 ――甘い。

 甘めの卵焼きだった。少しの醤油がアクセントになっていて、ふわふわで、舌の上でほどける。実家の母親が作ってくれた卵焼きに似ていた。コンビニの硬くてしょっぱい卵焼きとは別物だった。

 思わず手が止まった。

「……これ、俺の好みなんだけど」

「そうですか」

「いや、なんで知ってんだよ。甘めの卵焼きが好きとか、いったことねえだろ」

「なんとなくです」

 なんとなく。そんなわけあるか。でも理人はそれ以上なにもいわず、自分の弁当に箸を伸ばした。追及しようとしたが、その横顔があまりに自然で、聞くタイミングを逃した。

 直もご飯を口に運んだ。炊きたてのツヤツヤした米が、噛むほどに甘い。米って、こんなにうまかったっけ。いつもコンビニのおにぎりで済ませていた自分が馬鹿みたいだ。小松菜の煮浸しはだしの香りが鼻に抜けて、ハンバーグは肉汁がじゅわっと広がった。ひじきまで、ちゃんとうまい。

 全部が、ちゃんとうまかった。手を抜いているおかずが一つもない。

 気づいたら、箸が止まらなくなっていた。がつがつ食べている自分に気づいて、少し恥ずかしくなる。

「……うまいな。全部うまい」

「ありがとうございます」

「神谷、これ朝から全部作ったのか?」

「ハンバーグと煮物は前日に仕込みました。ほかは朝から」

「よくそんな時間あるな……」

「早起きすればいいだけです。食事は生活の基本ですから」

 理人は箸を止めて、横目でこちらを見た。

「先輩は、自分のことをもっと大切にしてください」

「……なんだよ、急に」

「他人にはやさしいのに、自分のことは後回しにする」

 さらりといわれた。まるで長いこと見てきたかのような口ぶりだった。

 ピンとこなかった。困っている人を放っておけないだけだ。それが自分を蔑ろにしていることになるのか。

 でも、確かに。自分のために朝から弁当を作ってくれる人は、今、隣にしかいなかった。

 直はブロッコリーを口に放り込んだ。塩加減がちょうどよかった。

「にしても、全部俺好みだったな。……ちょっとこわいぐらい」

「こわくないですよ」

 理人はなんでもないようにいった。

「じゃあ、明日も作ってきますね」

「……いいのか?」

「もちろんです。リクエストがあれば聞きます」

「じゃあ……唐揚げ」

 理人が一瞬、口の端を引いた。呆れたのか、笑ったのか、判断がつかない。

「了解しました」

「弁当箱、洗って返すよ。これぐらいさせてくれ」

「このふたつしかないので。持って帰られると困ります」

「……そうか。じゃあ、頼む」

 弁当箱を手渡した。

 なにもう、自然に明日も作ってもらう前提になっているのか。梨沙の声が蘇った。「まるで彼女じゃん」。

 違う。理人は料理が得意で、ついでに作ってくれてるだけだ。――ついでに、わざわざ、ふたつ。

 深く考えるな。

 直は立ち上がった。理人も静かに弁当箱を紙袋に収めて、立ち上がる。その口元がかすかに弧を描いていた。

 午後は驚くほど仕事が捗った。

 いつもなら昼食後に襲ってくる眠気がない。頭がすっきりしていて、メールの返信もサクサク進んだ。二件の見積もり依頼に返答し、来週の訪問スケジュールを組み、後回しにしていた報告書の下書きまで終わった。

 おにぎりを急いでかき込んでいたころは、午後一時にはもう瞼が重くなっていた。あれはなんだったのか。

 午後三時を過ぎたころ、理人がコーヒーを持ってきた。

「こん詰めすぎです。休憩してください」

「ああ……悪い」

 受け取ったカップがあたたかかった。コーヒーの湯気越しに、理人の顔が見えた。

「先輩、午後の仕事、速かったですね」

「……そうか?」

「いつもの倍は進んでますよ」

 そうなのか。自覚はなかった。ただ、手が止まらなかっただけだ。

「弁当のおかげですかね」

 理人がなんでもないようにいった。なんでもないようにいうくせに、その目が「ほら見ろ」と語っていた。

「……かもな」

 素直に認めるのは悔しいが、否定もできなかった。

 夕方。理人がまた横に立った。

「先輩、帰りましょう」

「……八時か?」

「八時です」

「今日は素直に帰る」

「よかったです」

 今日は腕を掴まれなかった。並んで駅へ歩く。五月の夜風がぬるい。肩が触れそうなぐらい距離が近かったが、理人は気にする様子もなかった。

 ふと、昨日のことを思い出した。理人は直を電車に乗せた後、ホームに残っていた。つまり、反対方向に住んでいるか、別の路線を使っているかのどちらかだ。

 今日は何食わぬ顔で、理人は直と同じ車両に乗り込んだ。理人の帰り道ではないはずなのに。

「先輩の家の近くにスーパーはありますか」

「あるけど、なんで」

「夕食の改善です。コンビニより選択肢が多いので」

「……お前、どこまで管理する気なんだよ」

「必要なところまでです」

 答えになっていない。けれど理人の口調には迷いがなくて、直は言い返せなかった。

 直のアパートの最寄り駅で降りて、駅前のスーパーに入った。閉店間際の惣菜コーナーは品数が少なく、値引きシールが貼られた弁当がまばらに並んでいた。

 理人はハンバーグ弁当を一つ手に取り、直に見せた。

「いつもこういうのですか」

「……まあ、そんな感じ」

「茶色一色ですね」

「うるせえ。安いし、腹膨れるし、それでいいだろ」

「よくないです」

 理人は弁当を棚に戻し、冷蔵ケースからサラダを一つ取って、弁当の横に置いた。

「これを足してください。弁当だけだと野菜が足りません」

「それだけ?」

「まずは、そこからです。急に全部変えても続きません」

 押しつけがましくなかった。やれ、ではなく、まずはここから。なのに妙に従いたくなるのは、昼の弁当の味がまだ舌に残っているからだろうか。

 直はハンバーグ弁当とサラダを持って会計を済ませた。理人はなにも買わなかった。本当に、直のためだけにここまで来たのだ。

 スーパーの外で、理人が足を止めた。

「じゃあ、俺はこれで」

「お前、どこに住んでんの? この辺じゃないだろ」

「会社から徒歩十五分のところです」

「は? ……わざわざ俺のためにここまで来たのか」

「管理ですから」

 当たり前のようにいった。けれどそれは、直には当たり前じゃなかった。

 理人は数歩歩いてから振り返った。

「明日も弁当、作りますね」

 口角がわずかに上がっている。無表情のこの男がうれしそうに見える一瞬が、妙に印象に残った。

「なんなら、夕飯も作りに来ますよ」

「……っ」

 返事をする前に、理人は駅へ向かって歩き出していた。細い背中が、改札の向こうに消えていく。わざわざ直が出勤する方向の電車に乗って帰るのだ、この男は。

 直はしばらく、その場に立っていた。スーパーの袋がぶら下がった手を見下ろす。ハンバーグ弁当とサラダ。昨日までは持って帰ったことのない組み合わせだ。

 部屋に帰った。

 電気をつける。いつもと同じ散らかった1K。床に転がった充電器、脱ぎっぱなしのシャツ、ゴミ箱から溢れたコンビニの袋。いつもなら、この中にコンビニ弁当を一つ追加して、ひとりで食べて、寝るだけだ。

 今日は、スーパーの袋の中にサラダがある。理人が選んだサラダが。

 テーブルの上を少しだけ片付けて、弁当とサラダを並べた。ドレッシングをかけて、一口食べる。普通のサラダだ。特別うまいわけじゃない。

 なのに、昼に食べた弁当の味が、まだ舌の奥に残っていた。甘い卵焼き。だしの効いた煮浸し。肉汁たっぷりのハンバーグ。全部が、なぜか直の好みだった。

 ――なんとなく、って。

 理人の横顔が浮かんだ。あの涼しい顔で、朝からふたり分の弁当を作っている姿。キッチンに立って、卵焼きの甘さを調整している姿。

 考えても仕方がない。あいつは世話焼きで、料理が得意で、それだけだ。

 それだけのはずなのに、落ち着かなかった。

 なんでだろう。わからなかった。

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  • 気づいたら後輩に飼われてた   第二十四話 執着の理由

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