LOGIN理人に「管理」を宣言されたその日から、早速テコ入れが入った。
夕方五時過ぎ。直がまだモニターに向かっていると、真横に人の気配がした。
「先輩、帰る時間です」
「は? まだ仕事中なんだけど」
「徹夜の分は朝七時から出勤した扱いです。八時間超えてますよ」
理人は腕を組み、じっと見下ろしている。前髪の隙間から覗く目が動かない。逃げ場がなかった。
「あとちょっとだけ……」
「ダメです」
短い否定。そして、絶対だった。
「……わかったよ」
渋々、帰り支度を始めた。本当はクライアントからのメールに返信したい。明日の提案書も手直ししたい。けれど理人の様子を見る限り、粘っても無駄だ。
帰り支度が整うと、理人は直の腕を掴んだ。
「お疲れさまでした」
理人が課内に声をかける。直も仕方なく「お疲れっした」と挨拶した。周囲から驚きの視線が刺さった。それもそうだ。いつも誰よりも遅く帰る男が、まだ明るいうちにオフィスを出ようとしている。
エレベーター、エントランス、駅まで。理人は腕を離さなかった。
「いつまで掴んでんだよ」
「先輩が電車に乗るまでです」
有言実行だった。直を車両に押し込むと、理人はホームから小さく手を振った。ドアが閉まる。
「明日は九時出勤でお願いします」
文句をいう間もなかった。
結局、次の日も起きられなかった。いつも通りコアタイムぎりぎりの十時五十五分に出社した。
「ざいまーす……」
営業二課の島に向かうと、理人がこちらを向いた。目が笑っていない。
「先輩。九時って、いいましたよね」
「ああ……そうだっけ」
「そうだっけ、じゃありません」
短く切られた。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに事実を突きつける。それが一番堪えた。
「明日から朝、電話します」
「は? なんで」
「起きられないなら、起こします。席についてください」
反論の余地がなかった。周囲の席からちらちら視線を感じる。直は舌打ちを飲み込んで、席に座った。
朝イチで小言を食らって、仕事に集中できない。苛立ちが先に立って、メールを開いても頭に入らない。返信しなければいけないクライアントからの問い合わせが三件、提案書の修正依頼が一件。どれも手をつけられないまま、時間だけが過ぎた。
気づけば昼になっていた。出社してから一時間。なにも片付いていない。情けなさすぎて、ため息が出た。
昼ごはんをコンビニに買いに行こうと立ち上がったとき、理人がそばに来た。
◆
「先輩。お弁当です」
目の前に、布で包まれた弁当箱が差し出された。
「……弁当? お前が作ったのか?」
「はい。食生活も管理の範囲ですので」
「いや、弁当作ってくるって。さすがにやりすぎだろ」
「料理は得意です。問題ありません」
直が困っていると、通りかかった橘梨沙が足を止めた。
「えー、なになに? お弁当?」
「先輩の分を作ってきました」
「もしかして神谷くんの手作り?」
「はい。自分の分と、先輩の分」
理人がもう一つの弁当箱を掲げてみせた。梨沙が目を丸くした。
「すごーい。まるで彼女じゃん」
「彼女って……。いらねえって。コンビニで買ってくるし」
「せっかく作ったんですから、食べてください」
「そうだよー。人の好意は無駄にしちゃダメだからね」
「おいおい、梨沙まで……」
「ね、どんなおかず入ってるの? 見ていい?」
「ダメです。橘さんは休憩に行ってください」
「えー、つれないなー。じゃあ食べたら感想教えてね、夏目くん」
「いらねえって……」
「コンビニの食事だと栄養が偏ります。行きましょう」
理人が直の腕を引いた。抵抗する間もない。梨沙が後ろで手を振っている。
「いってらっしゃーい」
にこにこした顔が遠ざかっていった。
なんだこの状況は。弁当を持たされ、後輩に腕を引かれ、屋上に連れて行かれようとしている。
◆
ビルの屋上には初めてきた。この会社に勤め出してもう、五年が経つのに。
五月の風が頬を撫でた。空は抜けるように青い。ここまでくると、オフィスの閉塞感が少しだけ和らいだ。
備え付けのベンチに腰を下ろして、弁当の包みを開けた。
手作りの匂いがふわりと広がった。コンビニ弁当の均一な匂いとは、まったく違う。油と調味料が混ざった、家庭の台所の匂い。
「はい、お茶も」
理人がペットボトルを差し出した。
「準備いいな」
「弁当にはお茶でしょう」
「なんか、かーちゃんみたいだな、お前」
「そうですか」
理人は涼しい顔で自分の弁当を開けた。中身は同じだった。
卵焼き、ブロッコリー、プチトマト。ハンバーグに小松菜の煮浸し、ひじき。彩りが鮮やかで、ひと目で既製品ではないとわかる。おかずの種類も量も、栄養バランスまで計算されているように見えた。これを全部、朝から作ったのだろうか。
卵焼きを箸でつまんで、口に入れた。
――甘い。
甘めの卵焼きだった。少しの醤油がアクセントになっていて、ふわふわで、舌の上でほどける。実家の母親が作ってくれた卵焼きに似ていた。コンビニの硬くてしょっぱい卵焼きとは別物だった。
思わず手が止まった。
「……これ、俺の好みなんだけど」
「そうですか」
「いや、なんで知ってんだよ。甘めの卵焼きが好きとか、いったことねえだろ」
「なんとなくです」
なんとなく。そんなわけあるか。でも理人はそれ以上なにもいわず、自分の弁当に箸を伸ばした。追及しようとしたが、その横顔があまりに自然で、聞くタイミングを逃した。
直もご飯を口に運んだ。炊きたてのツヤツヤした米が、噛むほどに甘い。米って、こんなにうまかったっけ。いつもコンビニのおにぎりで済ませていた自分が馬鹿みたいだ。小松菜の煮浸しはだしの香りが鼻に抜けて、ハンバーグは肉汁がじゅわっと広がった。ひじきまで、ちゃんとうまい。
全部が、ちゃんとうまかった。手を抜いているおかずが一つもない。
気づいたら、箸が止まらなくなっていた。がつがつ食べている自分に気づいて、少し恥ずかしくなる。
「……うまいな。全部うまい」
「ありがとうございます」
「神谷、これ朝から全部作ったのか?」
「ハンバーグと煮物は前日に仕込みました。ほかは朝から」
「よくそんな時間あるな……」
「早起きすればいいだけです。食事は生活の基本ですから」
理人は箸を止めて、横目でこちらを見た。
「先輩は、自分のことをもっと大切にしてください」
「……なんだよ、急に」
「他人にはやさしいのに、自分のことは後回しにする」
さらりといわれた。まるで長いこと見てきたかのような口ぶりだった。
ピンとこなかった。困っている人を放っておけないだけだ。それが自分を蔑ろにしていることになるのか。
でも、確かに。自分のために朝から弁当を作ってくれる人は、今、隣にしかいなかった。
直はブロッコリーを口に放り込んだ。塩加減がちょうどよかった。
「にしても、全部俺好みだったな。……ちょっとこわいぐらい」
「こわくないですよ」
理人はなんでもないようにいった。
「じゃあ、明日も作ってきますね」
「……いいのか?」
「もちろんです。リクエストがあれば聞きます」
「じゃあ……唐揚げ」
理人が一瞬、口の端を引いた。呆れたのか、笑ったのか、判断がつかない。
「了解しました」
「弁当箱、洗って返すよ。これぐらいさせてくれ」
「このふたつしかないので。持って帰られると困ります」
「……そうか。じゃあ、頼む」
弁当箱を手渡した。
なにもう、自然に明日も作ってもらう前提になっているのか。梨沙の声が蘇った。「まるで彼女じゃん」。
違う。理人は料理が得意で、ついでに作ってくれてるだけだ。――ついでに、わざわざ、ふたつ。
深く考えるな。
直は立ち上がった。理人も静かに弁当箱を紙袋に収めて、立ち上がる。その口元がかすかに弧を描いていた。
◆
午後は驚くほど仕事が捗った。
いつもなら昼食後に襲ってくる眠気がない。頭がすっきりしていて、メールの返信もサクサク進んだ。二件の見積もり依頼に返答し、来週の訪問スケジュールを組み、後回しにしていた報告書の下書きまで終わった。
おにぎりを急いでかき込んでいたころは、午後一時にはもう瞼が重くなっていた。あれはなんだったのか。
午後三時を過ぎたころ、理人がコーヒーを持ってきた。
「こん詰めすぎです。休憩してください」
「ああ……悪い」
受け取ったカップがあたたかかった。コーヒーの湯気越しに、理人の顔が見えた。
「先輩、午後の仕事、速かったですね」
「……そうか?」
「いつもの倍は進んでますよ」
そうなのか。自覚はなかった。ただ、手が止まらなかっただけだ。
「弁当のおかげですかね」
理人がなんでもないようにいった。なんでもないようにいうくせに、その目が「ほら見ろ」と語っていた。
「……かもな」
素直に認めるのは悔しいが、否定もできなかった。
夕方。理人がまた横に立った。
「先輩、帰りましょう」
「……八時か?」
「八時です」
「今日は素直に帰る」
「よかったです」
今日は腕を掴まれなかった。並んで駅へ歩く。五月の夜風がぬるい。肩が触れそうなぐらい距離が近かったが、理人は気にする様子もなかった。
ふと、昨日のことを思い出した。理人は直を電車に乗せた後、ホームに残っていた。つまり、反対方向に住んでいるか、別の路線を使っているかのどちらかだ。
今日は何食わぬ顔で、理人は直と同じ車両に乗り込んだ。理人の帰り道ではないはずなのに。
「先輩の家の近くにスーパーはありますか」
「あるけど、なんで」
「夕食の改善です。コンビニより選択肢が多いので」
「……お前、どこまで管理する気なんだよ」
「必要なところまでです」
答えになっていない。けれど理人の口調には迷いがなくて、直は言い返せなかった。
直のアパートの最寄り駅で降りて、駅前のスーパーに入った。閉店間際の惣菜コーナーは品数が少なく、値引きシールが貼られた弁当がまばらに並んでいた。
理人はハンバーグ弁当を一つ手に取り、直に見せた。
「いつもこういうのですか」
「……まあ、そんな感じ」
「茶色一色ですね」
「うるせえ。安いし、腹膨れるし、それでいいだろ」
「よくないです」
理人は弁当を棚に戻し、冷蔵ケースからサラダを一つ取って、弁当の横に置いた。
「これを足してください。弁当だけだと野菜が足りません」
「それだけ?」
「まずは、そこからです。急に全部変えても続きません」
押しつけがましくなかった。やれ、ではなく、まずはここから。なのに妙に従いたくなるのは、昼の弁当の味がまだ舌に残っているからだろうか。
直はハンバーグ弁当とサラダを持って会計を済ませた。理人はなにも買わなかった。本当に、直のためだけにここまで来たのだ。
スーパーの外で、理人が足を止めた。
「じゃあ、俺はこれで」
「お前、どこに住んでんの? この辺じゃないだろ」
「会社から徒歩十五分のところです」
「は? ……わざわざ俺のためにここまで来たのか」
「管理ですから」
当たり前のようにいった。けれどそれは、直には当たり前じゃなかった。
理人は数歩歩いてから振り返った。
「明日も弁当、作りますね」
口角がわずかに上がっている。無表情のこの男がうれしそうに見える一瞬が、妙に印象に残った。
「なんなら、夕飯も作りに来ますよ」
「……っ」
返事をする前に、理人は駅へ向かって歩き出していた。細い背中が、改札の向こうに消えていく。わざわざ直が出勤する方向の電車に乗って帰るのだ、この男は。
直はしばらく、その場に立っていた。スーパーの袋がぶら下がった手を見下ろす。ハンバーグ弁当とサラダ。昨日までは持って帰ったことのない組み合わせだ。
部屋に帰った。
電気をつける。いつもと同じ散らかった1K。床に転がった充電器、脱ぎっぱなしのシャツ、ゴミ箱から溢れたコンビニの袋。いつもなら、この中にコンビニ弁当を一つ追加して、ひとりで食べて、寝るだけだ。
今日は、スーパーの袋の中にサラダがある。理人が選んだサラダが。
テーブルの上を少しだけ片付けて、弁当とサラダを並べた。ドレッシングをかけて、一口食べる。普通のサラダだ。特別うまいわけじゃない。
なのに、昼に食べた弁当の味が、まだ舌の奥に残っていた。甘い卵焼き。だしの効いた煮浸し。肉汁たっぷりのハンバーグ。全部が、なぜか直の好みだった。
――なんとなく、って。
理人の横顔が浮かんだ。あの涼しい顔で、朝からふたり分の弁当を作っている姿。キッチンに立って、卵焼きの甘さを調整している姿。
考えても仕方がない。あいつは世話焼きで、料理が得意で、それだけだ。
それだけのはずなのに、落ち着かなかった。
なんでだろう。わからなかった。
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」







